第9回 情報社会で増す食品不安に、科学に基づくコミュニケーションを 公益財団法人 食の安全・安心財団 理事長 唐木英明 先生

無用な不安を解消する手段、それがリスクコミュニケーション

ー リスク自体の変化、情報発信の問題、そして判断を狂わせるバイアス、そういったことで食の安全に関わる誤解が生まれてきたということですが、それを正しい方へ導くにはどうしたらよいのでしょうか?

唐木先生食品に対する根拠がない不安、無用な不安は健康にも悪いし、経済にも悪いものです。それを解消するためにどうしたらいいのか? そのためには「十分な説明」と「信頼の確保」と「話し合い」の3つに尽きると思います。これこそが「リスクコミュニケーション」であり、その概念は次のようになります。

●リスクコミュニケーション(リスコミ)とは
問題(リスク)に関する情報を利害関係者間で共有し、意思疎通と相互理解を図ることで信頼関係を築き、被害者意識を解消して合意形成を目指すもの

つまり、リスコミは社会の対立を解消する手段です。ただし、リスコミを行う上で重要なのは誰に対しても同じように対話すればいいわけではありません。強固な先入観を持つ人たち、あるいは例えば無添加などのビジネスを展開している人たちとは対話そのものが成立しない。リスコミは、意見を決めかねている一般の人たちに対して有効だといえるでしょう。

ー 一般の人たちと一つのリスクについて対話する際に、わかりあうためのポイントはどんな点でしょうか?

唐木先生我々専門家と一般の人の間には、リスクをどう判断するかに大きな違いがあります。これを「倫理の壁」、あるいは「相互理解の壁」と呼んでいますが、専門家はリスクを科学的に確率論で判断しますが、一般の人は感情的に、白か黒か、添加物は入っているのかいないのか、そういう判断をします。前述しましたように、化学物質は用量作用関係があり、この量なら確率論的にリスクはありませんという考え方をしますが、一般の人はリスクをゼロにしてほしいと考えます。このように全く違う考え方をどう克服するかがリスコミの非常に重要な問題ということになります。

ー 「相互理解の壁」は、正確な情報を丁寧に説明することによって解消されるのでしょうか?

唐木先生単純に考えると、きちんとした情報を身につけてさえもらえれば、論理的・科学的な判断ができるということになります。実際に30分も話せば納得してもらえる場合も多い。ところが、中にはいくら話しても、情報をたくさん出しても、論理的判断に至らない人もいます。この両者の違いは何か? それが信頼関係なのです。話し相手が信頼できる人だと思うと、話がすんなりと入ってきて、そうなんだと納得できる。しかし、信頼がないと話を聞けば聞くほど、「自分を騙そうとしているのではないか」、「ごまかそうとしているのじゃないか」と懐疑的になり、頑なになってしまうことがあります。ですから、リスコミで最も大事なのは信頼関係を築くことなのです。

感情的判断と論理的判断による違い

食品添加物や残留農薬への不安が低減。
地道なリスクコミュニケーションが意識を変えた

ー 実際にリスコミによる効果がわかるケースを教えていただけますか?

唐木先生私がお手伝いしている食品安全委員会で「食品安全モニター」を募集し、食品への不安についてアンケート調査した結果について2006年と18年を比較したものが次のグラフです。

リスクコミュニケーションの成果 食品安全モニター調査 2006 → 2018年の変化

唐木先生これを見ると、06年には8割以上が残留農薬を不安に感じていたものが、18年には5割以下にまで減少しています。食品添加物についても75%が40%余りに減っているのがわかります。これは12年間食品安全委員会がリスコミを行ったことで、実際にはリスクが非常に小さいものに対する誤解が解けてきたあらわれといえるでしょう。逆にリスクの高い細菌・ウイルスやいわゆる健康食品への不安は横ばいや増加傾向にあります。このように、リスコミは時間をかけて地道に懸命に行えばそれなりの効果が上がるのです。ただし、見方を変えれば12年かけても4割の人は食品添加物が不安だといっている。これは消費者が持っている非常に強い先入観を変えるのは容易でないことを物語っているのでしょう。

正しい判断力を身につけるために、
教育の場にもっと科学とディベートを

ー リスコミによって食品安全への意識が修正され、無用な不安が解消されてきたということですが、さらに食の安全・安心について正しく判断して行動につなげるには何が必要でしょうか?

唐木先生教育に求められる点がいくつかあると思います。まず、先に述べた化学物質の量と作用の関係など科学の教育が十分ではないということ。もう一つはディベートによる論理を重視した教育ですね。アメリカでは小学校の時からディベートをとり入れていて、一つのテーマに対し賛成派・反対派に分かれ、それぞれがきちんと論理を組み立てて意見を交わします。それをクラスの生徒が聞いてどちらかに票を入れる。論理の戦いですね。ところが日本社会は論理の戦いをあまり好まず、感情で物事を判断する文化が根付いています。そのため論理的、科学的な判断がうまくできない日本人が多く育っているのです。科学、そしてディベートの教育を充実させることが食品の安全に関わる問題を解決する上でも大事なことだろうと思います。

Columnディベート番組が示したリスクコミュニケーションへの効果

アメリカで人気が高いのがTVのディベート番組。以前に放送された遺伝子組換えをテーマにした番組では、討論前に遺伝子組換えへの賛成・反対を聞くと、討論会場では賛成32%、反対37%で、オンライン参加者は賛成68%、反対21%という割合でした。それが遺伝子組換えについて詳しい情報が伝えられた討論の後には、賛成の人が会場で60%、オンラインでは90%と、ともに増加し、反対派はともに一ケタの割合に減少したのです。ここからもわかるように、一つの問題の賛否について、論理を戦わせながら詳しく情報を発信するスタイルがリスコミにはとても有効だと、唐木先生はディベートの大切さを訴えます。

ー 最後に、リスクコミュニケーションの受け手である一般の人にできることがあればアドバイスをお願いします。

唐木先生小さなお子さんがいるお母さんから聞いた話ですが、お母さん方のグループで食品添加物についてよく話題に上るというのです。その方がグループの一人とスーパーで会ったときに無添加を買わないとジロッと見られるという。私はさほど気にしていないし、値段も高いので買おうと思わないけれど、まわりから「子どもにそんなものを食べさせるの?」って言われそうだからしかたなく…というのです。コミュニティも大切ですが、自分自身の意見をもって、それをきちんと言えないことがライフスタイルにもつながってしまう。そこを変えていく必要があると思います。ただ、急にというのは難しいですから、じゃあ、みんなでリスコミの会に行って話をしましょうとか、そういうところから始めたらよいのかなと思っています。こういった点も含めて、人々の先入観が少しずつ変わっていくには長い時間がかかります。科学教育やディベート教育などが徐々に積み重なり、10年後20年後の社会が変わっていくという希望をもって、リスクコミュニケーションに携わっています。

ー 食品安全の話から、コミュニケーション、そして日本人の特性や教育の話へと、たくさんの課題を示していただいたように思います。本日は貴重なお話をありがとうございました。

公益財団法人 食の安全・安心財団 理事長、農学博士、獣医師
唐木 英明 先生

略歴

1964年 東京大学農学部獣医学科 卒業
同大学助手、助教授、テキサス大学ダラス医学研究所研究員を経て
1987年 東京大学教授、同大学アイソトープ総合センター長 就任
2003年 名誉教授 就任
2012年 公益財団法人 食の安全・安心財団 理事長就任
公益財団法人 食の新潟国際賞財団選考委員長、内閣府食品安全委員会専門参考人を併任

倉敷芸術科学大学学長、日本学術会議副会長、日本比較薬理学・毒性学会会長、日本トキシコロジー学会理事長、日本薬理学会理事、日本獣医学理事、日本アイソトープ協会理事、日本農学アカデミー副会長、日本学術会議同友会理事、原子力安全システム研究所研究企画会議委員などさまざまな役職を歴任

専門分野

薬理学、毒性学(化学物質の人体への作用)、食品安全、リスクマネジメント